株式会社シベスピ 従業員ブログ

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哲学的であるとはどのようなことか

スキル系など何を書くか迷いましたが、
今回は一番好きなものについて書くことにしました。
武田が哲学を学んでいたという話を聞いたことがある人もいるかもしれませんが、
4年の時を経て満を持しての登場です。
このブログでの意図は2つあります。
①哲学の誤解を解くこと
②哲学という方法論が応用できるか考えること

①については「哲学とは何か」で書いていますが、最後まで読めば、
本屋でよく見かける人生の哲学という名前の本に、
なぜ”哲学”という言葉が用いられるのか何となくわかるかと思います。
(私は学生の頃からずっと不思議でした。)
この章は歴史に基づいてはいますが、一般論かと言われるとわかりません。
②については「哲学的であるとは」で書いていますが、
哲学が日常に入り込めるかどうか考えています。

哲学とは何か

はじめに

哲学の語源は、古代ギリシャのphilosophiaに由来します。
philosophiaは「愛する(philo)」と「知(sophia)」から成り立っていますが、
この言葉が生まれ書物に出てき始めた頃は、
現代でいうところの知的好奇心という意味合いで使用されていました。※諸説あり
そして、この語源的な意味で哲学を使用していたのが、
紀元前4世紀頃のプラトンです。

知の細分化

プラトンの弟子であるアリストテレスはphilosophiaに基づいて多くの著作を残し、
その著作群は自然学・形而上学政治学といった形でカテゴリー分けされました。
その後、アリストテレスの著作は何世紀にも渡って主要な研究対象となりますが、
その過程で知はphilosophiaとして探求されるのではなく、
これらの著作を研究する形で探求されることとなります。
このアリストテレス著作の研究は、現代の学問の原型となりました。

新しい学問の誕生

現在の学問は科学分野の発展が著しいですが、
科学という言葉が用いられるようになったのは19世紀以降に入ってからです。
それまで科学は自然哲学(philosophia naturalis)の一部で、
近代科学の父とされるニュートンも当時は自然哲学者でした。
個々の学問が発達した結果、学問は専門性を増し、
科学から物理学・生物学といったように学問の中に新しい学問が生まれました。
その過程で知の探究は専門化し、philosophiaはさらに影を薄めていきました。

philosophiaから現在の哲学へ

現代の科学や政治学、文学といった各学問はphilosophiaから独立し、
philosophiaとしてでなくとも各学問の名の下で、
知の探究が行われるようになりました。
反対に哲学の方はというと、大学では1つの学問として学ばれていますが、
その多くは語源的なphilosophiaの意味というより
philosophiaとして探求されたものをその歴史に沿って
再解釈するような形で探求されています。
結論になりますが、哲学という言葉には2種類あるように思います。
1つはphilosophia(知的好奇心)としての哲学、
もう1つはphilosophiaから各学問が独立した後に残されたものとしての哲学です。
2つ目の狭義の哲学は個別の学問として確立されていないphilosophiaの一部です。
(狭義の哲学から個別の学問に独立させていくべきなのかもしれません。)
狭義の哲学は学問の卵が集まったものです。
例えば、存在とは何かを問う形而上学
正義とは何かを問う倫理学などが哲学の扱う分野とされていますが、
専門化させるべき研究方法や知的資源があれば、
それらは哲学から独立していくと思います。
ある意味、狭義の哲学には魑魅魍魎が集まっていると言えるかもしれません。
その中には人生をテーマにした哲学もあり得るのかもしれないですね。

哲学的であるとは

※「3.日常で哲学的であること」だけ読んでも問題ないように書きました。

はじめに

哲学には2種類あると書きましたが、
ここではphilosophiaとしての哲学について書きます。
狭義の哲学については、現代の学問とは?という話になるので割愛します。 

philosophiaが目指す方法

philosophiaは真理探究の場で、普遍的な説明が求められます。
様々な事象や言葉の意味について疑問が生まれることで探求が始まりますが、
その疑問への回答には普遍的な説明が求められます。
疑問を育み、それに対してどのように普遍的な説明を行うか考えること。
これがざっくりとしたphilosophiaの理想になります。
「すべてを疑った後に疑っている自分は存在する」
というようなことを言った哲学者も
日常と真理探究は区別しろと言っているように、
あらゆることに常に疑問を持っていれば生活できないですね。
これらが共存できるかについては「3.日常で哲学的であること」で書きますが、
その前に真理探究の罠について触れておきます。

真理探究の罠

以前、「哲学とは何か」の章を哲学仲間に発表しましたが、
その際に面白い議論があったので紹介します。
下の罠は真理探究するにあたって陥りやすい罠です。

・答え様々の罠
疑問については回答を示さないといけませんが、
いろんな意見があるという結論を出して、
あたかも回答が出たかのように錯覚させる罠です。
集団で議論しているときに陥りやすいかと思います。

・文献学の罠
文献学とはある文献が正しいかどうか歴史的背景を読み解いたり
解釈したりして精査する学問ですが、
そればかりに終始して自分の主張・説明を行わないというような罠です。

・レトリカルの罠
文章の美しさにこだわるあまり真理探究が疎かになるような罠です。

日常で哲学的であること

哲学的であるということは、あらゆることに興味を持ちその過程で疑問を持つこと
そしてその疑問に対して普遍的になることを目指して回答することです。
今まで完璧に普遍的な真理を回答している哲学者はいないと思っています。
なので、必ずしも完璧に納得したである必要はないと思いますが、
真理と普遍を目指すことが大事だと思います。
また、この真理探究の過程でいくつか罠がありました。
真理探究で参考とするはずの主張に対して過剰に執着してしまうことや、
真理探究ではなく、それを表現するための手段に執着してしまうことです。
これに陥りがちですが、自覚的になって見極める必要があります。
真理探求は調べること、考えること、答えを出すこと、
これらの一連の作業に言えるのかもしません。
つまり、日常的な仕事においても哲学的であるべきなのかもしれません。
とはいえ、常に「哲学的であること」は大変ですし、疲れると思います。
実際に私は大学時代に哲学者とはこうあるべき!が
強すぎて病んでる時期もありました。
なので、哲学的でなくてもよいものを作ることが大事だと思います。
つまり、懐疑的にならないような信頼できる人・ことを作るということです。
また、ある時は興味の幅を狭めるのもいいかもしれません。

おわりに

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
題名の「哲学的であるとはどのようなことか」は、
トマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか」をオマージュしています。
邦訳は読みやすくておすすめです。